天気の子と大人と子供~『天気の子』私的解釈~《ネタバレ注意》
先日、新海誠監督の映画『天気の子』を観ました。
今回はその中でテーマの一つであると感じた「大人vs子供」という観点から少し考察をしてみたいと思います。
少し長くなったので読みにくいかもしれませんが、太字を読むだけでもなんとなくわかります。たぶん。
また、この記事はネタバレになりますので、まだ映画を観ていない方は引き返すことを強く推奨します。
①「大人vs子供」とは?
作中では子供と大人が対峙する構図がたびたび登場します。
例えば
・児童相談所と陽菜、凪
・警察と帆高
という構図はわかりやすいかと思います。
では、その中で大人とはどのような存在なのでしょうか?
それを最も象徴していると感じたのが、圭介(須賀さん)の事務所での安井刑事のこの言葉です。
「ただまあ、彼はまさにいま人生を棒に振っちゃってるわけでして」
「そこまでして会いたい子がいるってのは、私なんかにゃ、なんだか羨ましい気もしますな」
大人である安井刑事や圭介には、社会の規律に背いてまで自分のやりたいことをすることはできないし、やろうともしません。
逆に、子供である帆高や陽菜は社会の規律に背いても自分の感情、すべきだと考えることを優先させます。
であるがゆえに、大人は規律を破ろうとする子供の前に立ちふさがらずにはいられません。
それは時に、陽菜が児相職員に「でも!」「私たち、誰にも迷惑かけてません……!」と言ったように、子供には理不尽なものとして映ることもあります。
しかし、大人はそれでもなお規律をもって子供の前に立ちふさがらなくてはいけないのです。
つまり、作中では
子供:規律<感情
大人:規律>感情
という存在なのです。
このように考えると、仮に帆高と陽菜が大人であった場合、結末は自分たちよりも社会を優先させるものになっていたのではないかと推測することもできます。
②テーマを踏まえ注目すべき点
⑴凪・陽菜・帆高の年齢
この中で最も年下なのは誰でしょうか。
もちろん実年齢では小学生である凪が一番年下のはずです。
しかし、作中での凪の行動は小学生らしからぬ大人びたものです。挙句の果てに帆高は凪のことを「センパイ」と呼ぶようになります。
また、陽菜と帆高の関係も実際の年齢関係とは異なり、中盤までは帆高よりも陽菜のほうが年上として描かれます。
実際に、陽菜が
「帆高ってまだ子どもですよね、恥ずかしい」
という場面や、補導されそうな帆高に対し島に帰るように促すなど大人のような行動をする場面も見受けられます。
このように、実年齢では帆高が最年長であるはずが、帆高はこの三人の中では最年少であるかのような立ち位置にいるのです。
帆高を最年少として描くこと。それと帆高の行動は対応しています。
・船内に戻るようにアナウンスされているにもかかわらず、甲板に出ていく。
・親や友人に何も言わずに失踪する。
・警察署から逃げ出す。
・線路上を走る。
これらの行為は一般的にやってはいけないものです。規律違反のオンパレードです。
上述したように、子供を規律よりも感情、すべきと信じることを優先させる状態と定義すると、帆高が少なくともこの三人の中で最年少の立ち位置とされるのは決しておかしいことではないと言えます。
⑵夏美と圭介の立ち位置
凪・陽菜・帆高が子供、刑事や児童相談所職員が大人で括られるとしたら、圭介と夏美の立ち位置はその中間と言えるでしょう。
夏美は就活生ということで、まさに大人と子供の中間にいます。大人として帆高をからかったり、一方では帆高の逃走を助けるなど子供の側に加担することもあります。
これは就活生という子供にも大人にもなり切れない時期の状態が表れているとみることができます。
一方、圭介は大人になり切れない大人といえます。基本、圭介は大人です。
「大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな」と本人が言う通り、彼には大事なもの、娘がいて、彼女と一緒に暮らすためには規律を守る大人である必要があります。
冒頭、帆高が船から落ちそうになったとき、警察から逃亡する彼を廃ビルで見つけたとき、彼は、子供であるがゆえに取り返しのつかないことになろうとしている帆高を救おうとします。
また、家出が発覚した帆高に対し「もう大人になれよ、少年」とも促します。
これらからは大人である圭介と子供である帆高という構図が表れてきます。
しかし、そこにさらに大人である刑事たちが入ってきたとき、彼は子供の側に立つことを選択するのです。それは、彼が大人になり切れない大人であるから可能なのです。
冒頭帆高にご飯を奢らせる場面、帆高は「大人にたかられるなんて……」と言っていますが、確かに子供に高い飯を奢らせる行動は大人としては相応しくないものです。
また、昼間から酒を飲んだり、なんだか怪しい記事を書いていたりと、やはりいわゆる“普通の大人”とは言えない人間です。
しかし、そういう“普通の大人”ではない圭介だからこそ、最後に子供の側に立つことができたのでしょう。
以上「大人vs子供」という観点から考察してきました。
小説ではこのテーマがより強く反映されているので、意識しながら読んでみると新たな発見があるのではないでしょうか。
何かあれば(暴言以外で)コメントをよろしくお願いします。
『フーガはユーガ』は悲しい話だと思う(ネタバレあり)
お久しぶりです。面倒くさくて更新をサボっておりました。
おととい発売された伊坂幸太郎さんの新作『フーガはユーガ』を読み終わったので、なんか書こうかなという気分になりました。
感想は、「とても良かったけど、とてもしんどい」という感じです。
本当に良かったんですよ!
伏線回収は流石だし、色々予想しながら読んでしまう自分でも「そうくるかー」っていう展開もあり、引き込まれました。
また、伊坂幸太郎作品と言えば作品間のリンクも見どころの一つですが、今回もバッチリあります。是非楽しみにしながら読んでみてください。
「しんどかった」というのは、自分がバットエンドが苦手な人間だからです。(以下ネタバレ)
今回の話の語り手であり主人公でもある優我は、最後は死んでしまいます。
これだけ見ると「バットエンドなんだなあ」と思われるでしょうが、今日の王様のブランチで伊坂さんが書いていたことによると「淋しくて悲しい話だけれどどこか優しい感覚の残るお話が好きでした」ということでした。
きっと伊坂さんはそういうお話を書いたんだと思いますし、実際そういうお話だったと思います。
ただ、私の中では優しい感覚以上に寂しさや悲しさが勝ってしまったのです。
「どうしてだろう」と私は思いました。主人公が死んでしまう作品というならば、『魔王』や『AX』もそうです。
しかし、この二つを読んだときは、自分は読後にこれほどまでに悲しくなることはありませんでした。
そして行き着いた結論は以下のものでした。
簡単です。
主人公が死んだのが物語のラストだったから
先ほど挙げた二つの物語では、主人公が死んだあと残された人々の話が長く綴られていました。
その中で主人公が残したものを通して、死んでしまった人と間接的に再び出会うことができたのです。
しかし、今回はそれが少ない。
成長したハルタ君がやってきてくれるということはありましたが、私はそれだけでは「再び優我と出会う」という感覚を得ることはできませんでした。
再び出会うということが無かったために、優我が死んでしまった悲しみが上書きされずに読後に残ってしまったんですね。
「なんかわからないけれどとてもしんどい」という私と同じ読後感の人は、もしかしたらこういう理由かもしれないですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。周りに伊坂作品について話できる人がいないので、何かコメントをいただけたらすごく喜びます。
『フーガはユーガ』実業之日本社
勉強って考え方を学ぶものなんだなあ(図書館戦争と憲法)
こんにちは。お久しぶりです。
引き続き『図書館戦争シリーズ』から私が思ったことを好き勝手に書いていきます。
タイトル名が謎ですね。
これは四巻目の『図書館革命』で「当麻先生の執筆を停止させるべきかさせないべきか」の議論をしているところで思ったことです。
確かにテロ怖いじゃないですか。だから、因果関係は定かじゃないにしろ、それに繋がるようなものは規制してもしょうがないかなって思ってしまうのも分かるんですよね。
私も最初難しいなあと思ったんですよ。でも読んでる途中で「テロは防がれるべきだけど、それは言論の統制によってなされるべきではない」という言葉を見て気づいたんです。
これって、憲法の消極的規制じゃん
憲法の消極的規制は職業選択の自由に対する規制のところで出てきます。
(詳しいことはこちらのページhttps://www.shikaku-square.com/gyoseisyoshi/kenpo01_contents13をみると良いと思います。)
大事なのはこの部分。「消極目的規制は厳格な合理性の基準により判定され、規制の必要性・合理性があり、かつ同じ目的が達成出来る緩やかな規制が他にあるかどうかを審査し、あれば違憲、ないなら合憲とします。」
今回当麻先生の執筆を規制する目的は「テロを防ぐこと」です。これに対して「小説家の執筆活動を停止する」という手段は果たして正しいと言えるでしょうか?
テロを防ぐためには警備を厳重にしたり武器の入手ルートを監視規制することなど他の方法も取れるはずです。小説家の執筆活動を停止する以外の措置でもある程度まで防ぐことができます。
このことを踏まえれば、この処置を下した政府の活動は間違っているということが言えます。
憲法を学んでいなければ私はこの考えに思い当たらなかったかもしれません。勉強したから自分の考えの幅が広がったのです。
「実生活で役に立たない勉強って何のためにやるの?」
という疑問をよく聞きます。実際に世間を見ていても実学を偏重する動きがあるような気がします。
勉強は考えの幅を広げるためにするんじゃないでしょうか?
私はそう考えています。
登場人物が先か場面が先か(有川浩と伊坂幸太郎)
図書館戦争シリーズ、別冊2まで読みましたよ。。。
あーーーーーーーーー!!!!!!!!
いいっすねー!!!
個人的に笠原堂上ペアより柴崎手塚ペアの方が不器用さが好みだったので、最終巻はニヤニヤしながら読んでました。
何回かに分けて図書館戦争シリーズを読んでいる途中に感じたことを書いていきます。今日は第一弾です。
まず最初に、図書館戦争シリーズ面白かったです。面白かったんですけど、読んでいて何か違和感を感じたんですよね。
それはなんなんだろうと考えて辿り着いたのが、ストーリーを主導するものの違いです。
私は伊坂幸太郎さんの小説が好きで、最近まではむしろそれしか読んでいなかったんです。そんな自分が有川浩さんの小説を読んでいて感じたのは、「動きが多い」ということでした。
もちろん伊坂さんの小説でも登場人物は動きます。しかし、伊坂さんの小説内での登場人物は有川さんのものと比べてみると、完成されてそこに配置されているという感じがします。
というのは、伊坂さんはあまり直接的には登場人物の感情を描かないんですよね。登場人物の感情で場面が動いているというより、場面の変化で登場人物が各々の信条に従って動いているという印象を受けます。
それに比べて有川浩さんの小説では登場人物の感情がとてもストレートに表現されています。読んでいる方がちょっと恥ずかしくなるくらい(笑)
また、作中で登場人物の考え方が変わったりもします。
これらのことを考えながら読んでいくと、小説を進めているのも登場人物の感情なんだという印象を受けました。(もちろん大長編とラブコメという理由もあると思いますが)
文学部でもない自分にはこれを論証する方法と時間がないので、これはただの印象のおはなしですが、こういうことを考えながら小説を読んでいくと面白いよなあって思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
レインツリーの国(バリアとコンプレックスについて)
テストが終わりました(ダブルミーニング)
ということでちゃんと更新します。今日は有川浩さんの『レインツリーの国』です。
本当は『図書館戦争シリーズ』について書こうと思っていたんですけど、別冊一巻目の甘々な感じに私の心が耐えられず。。。(笑)
砂糖を吐きながら読んでいるので気分転換にこちらについて先に書きます。(普通にネタバレなのでご注意ください)
簡単にお話しの流れついて書くと、自分の思い出の本について感想が書かれたWebサイトを見た男性がその管理人に連絡を取り、そこから色々な壁を乗り越えて愛をつないでいく物語です。
そして、読み終わった私の感想は「勉強になるなあ」ということでした。その勉強になった2点についてお話ししようと思います。
①失聴者と一纏めにしない
この本を読んでまず驚いたのは、失聴者の症状にも伝音性難聴と感音性難聴など、細かくその症状と対処方法が分かられていること。さらに驚いたのは、自分がこのことや耳に障害を抱えている人について何も知らなかったことです。
2020年のオリンピックに向けてバリアフリーが進んでいると巷では頻繁に聞きます。確かに、物理的な面では正しいのでしょう。しかし、世間の理解の面では果たしてそうでしょうか?
昔よりも確かに進んでいる面もあります。ただ、まだ十分ではありません。感音性難聴か伝音性難聴かで対処も違います。しかし一般の人から見れば一緒のように見えてしまう。感音性難聴の方に大きな声で話しても、効果がない場合が多いです。しかもそれで「せっかく気を使って大きな声で話してあげたのに」みたいな風に思われてしまうこともあります。
なんでも知ってるなんてそんなことは無理だ。
それはそうです。しかし、このような知識がない故のすれ違いはとても悲しいことだと思います。保健の授業でもっと時間をかけて理解を深めさせるとかは難しいんですかね。。。
②人によってコンプレックスを感じるものは違う
2点目はこれです。最初自分は中途失聴を患ったひとみに対して、伸が思ったように、「どうしてそれを隠すのか」「何故それをコンプレックスに感じるのか」と思いました。
しかし、読み進めていくにつれひとみのコンプレックスの所以も少しですがわかるような気がしました。
人によってコンプレックスを感じるところは違います。側から見たら一見不合理に見えるような事でも、その本人からしたら大事なことだしその背景にはそれだけの人生経験があります。無闇に否定してはいけないと思います。
もちろん不合理な認知は正してあげたほうがその人のためになるかもしれません。しかしそのためには充分な信頼関係、適切な言い方が必要です。
言いたくなったことをグッとこらえて、まずは肯定から入ってあげる方が良いのではないでしょうか?
長々と生意気なことを言いましたが、もしこれが誰かの目に触れてプラスであれマイナスであれ何か感じることがありましたら、コメントをいただけると幸いです。
次は図書館戦争シリーズか伊坂さんの作品について書くと思います。
天道虫について
テスト期間の憂さ晴らしにブログを始めたわけですが、何か投稿してみようということで、ここで一つブログ名の由来を。
伊坂幸太郎さんの作品が好きということで、ピーンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、このブログ名は伊坂幸太郎さんの『マリアビートル』という小説から影響を受けて付けました。
影響を受けたとは言うものの今手元に本がないのでうろ覚えで書くと、天道虫(テントウムシ)は「飛び立つときには木の枝の先まで行って、そこから意を決したかのように飛び立つ」んですね。
とりあえず行けるところまで行ってみる。できることがあるならば、できるだけやってみる。時が来たらその時は飛び込む。これって簡単そうに見えるけど、根気と、何より勇気がいる難しいことだと思います。それを実践している七尾さんは、決して気取ってはいないし運も悪くて無様なことになることもあるけど、とてもかっこいいです。(殺し屋にかっこいいとか言ってはいけないですかね(笑))大学生というモラトリアムを過ごしている自分も見習わなくてはいけないなという思いでこのブログの名前にそれを込めさせてもらいました。
どれくらい更新をするかわかりませんが、ブログを始めようと思います。直近で読んだのは有川浩さんの『図書館戦争シリーズ』なので、そのことについて次は書くのではないでしょうか。
それでは現実に帰って経済学のお勉強をしてきます。単位回収したいですね。。。