勉強って考え方を学ぶものなんだなあ(図書館戦争と憲法)
こんにちは。お久しぶりです。
引き続き『図書館戦争シリーズ』から私が思ったことを好き勝手に書いていきます。
タイトル名が謎ですね。
これは四巻目の『図書館革命』で「当麻先生の執筆を停止させるべきかさせないべきか」の議論をしているところで思ったことです。
確かにテロ怖いじゃないですか。だから、因果関係は定かじゃないにしろ、それに繋がるようなものは規制してもしょうがないかなって思ってしまうのも分かるんですよね。
私も最初難しいなあと思ったんですよ。でも読んでる途中で「テロは防がれるべきだけど、それは言論の統制によってなされるべきではない」という言葉を見て気づいたんです。
これって、憲法の消極的規制じゃん
憲法の消極的規制は職業選択の自由に対する規制のところで出てきます。
(詳しいことはこちらのページhttps://www.shikaku-square.com/gyoseisyoshi/kenpo01_contents13をみると良いと思います。)
大事なのはこの部分。「消極目的規制は厳格な合理性の基準により判定され、規制の必要性・合理性があり、かつ同じ目的が達成出来る緩やかな規制が他にあるかどうかを審査し、あれば違憲、ないなら合憲とします。」
今回当麻先生の執筆を規制する目的は「テロを防ぐこと」です。これに対して「小説家の執筆活動を停止する」という手段は果たして正しいと言えるでしょうか?
テロを防ぐためには警備を厳重にしたり武器の入手ルートを監視規制することなど他の方法も取れるはずです。小説家の執筆活動を停止する以外の措置でもある程度まで防ぐことができます。
このことを踏まえれば、この処置を下した政府の活動は間違っているということが言えます。
憲法を学んでいなければ私はこの考えに思い当たらなかったかもしれません。勉強したから自分の考えの幅が広がったのです。
「実生活で役に立たない勉強って何のためにやるの?」
という疑問をよく聞きます。実際に世間を見ていても実学を偏重する動きがあるような気がします。
勉強は考えの幅を広げるためにするんじゃないでしょうか?
私はそう考えています。